もふみんのブログ

ささみ食べてる?

龍宮城はキャパ500人程度のライブハウスでやってていいグループなんかじゃない

 

龍宮城 FC LIVE「JAPANESE PSYCHO」

2024年2月21日

至極強烈な空間が、代官山UNITに存在していた。

 

私の語彙だけでは表しきれないことが多すぎるのだが、大目に見てほしい。少しでも龍宮城の凄さが伝わってくれたなら、ファン冥利に尽きる。

以降ネタバレになるため、5日に行く人はブラウザバックを推奨します。

 

 

 

           【龍宮城】

 

「0年0組」(以下、ゼロゼロ)というオーディション番組から誕生した7人組のグループ。彼らのコンセプトは、唯一無二の〝オルタナティブ歌謡舞踊集団〟である。

彼らの成長は留まるところを知らない。それも、恐ろしいほどに。

オーディション番組が終わり、龍宮城として初のお披露目をしたのは2023年の5月6日だった。デビューをしてから、まだ1年も経っていない。そう、1年も経っていないのだ。

 

お披露目の「龍宮城の龍宮場」でさえ、凄かった。ゼロゼロをなぞらえた笑えるような演出や、当時の試験の課題曲を個々がさらに磨き上げた状態での披露、もうやめてあげてと言いたくなるほどに辛く苦しい怒涛のバイオレンスや、最後の、涙のRONDO。誰がどう見ても、初ステージというレベルを超越していた。

鼻をすする音が四方八方から聞こえた。私も然り。

オーディション番組という形を経て生まれたグループ=合格者と脱落者がいるという事実は切り離すことができない。龍宮城の龍宮場は、龍宮城のメンバー全員が、ゼロゼロから脱落したメンバーの思いを背負って、堂々と、慎重に、そして丁寧に作り上げられていた。

その繊細で脆くて強いステージが、その場に存在する全ての人の心をあらゆる形で震わせていた。紛れもない初ステージで。

当時の彼らの揺るぎない眼差しが、とても魅力的だったのを覚えている。

 

龍宮城は、見る度に成長し続ける。

人前に立つ度に、進化していくグループなのだ。

 

人は、圧倒的な何かを見ると笑ってしまうように出来ているらしく、毎回、凄みに笑ってしまう。見る度に上手くなる歌、ピッタリハマるようになっていくピッチとリズム、そして表現の幅の広がり。ただでさえ難しい楽曲が回数を重ねる毎に洗練されていく様子を見ると、いつもゾクゾクする。この人達は一体どこまで行けば気が済むのだと、毎度恐ろしくなる。

きっと、彼らの気が済むことはなく、どこまでも進んでいく。

そして、その進化の過程をずっと見ていたいと、強く望んでしまう。

 

 

追い付けない

 

 

なんだか遠くて寂しいような気もするが、KEIGO曰く、「私たちが信じ続ける限り、隣を歩き続けてくれる」らしい(ニュアンスしか覚えていなくて悔しい)から、どうか一緒に歩ませて欲しい。

 

贔屓目なしにしても龍宮城は、他の同年代アーティストにとって、最も脅威であると思う。ここまで著しく進化を遂げるグループなんて、存在していいのだろうか。自分が同時期にデビューしたアーティストなら、こんな不運なことは無い。

 

ビジュアルはもちろん、歌、ダンスはさることながら彼らの強みはやはり表現力にある。それもそのはず、彼らはあの女王蜂のアヴちゃんから全てを直々に教授されている。

彼らの中には、歌もダンスも未経験のメンバーだっている。ゼロゼロに出る1週間前まで、一般の高校生だったメンバーもいる。アイドルの研究生として活動していたメンバーなど、それまでの人生は様々だった。

しかし、デビューメンバーに選ばれてしまえばその差など関係ない。

彼ら全員と平等に関わり、一人一人と対峙し、見極めて、個性と共に最大限まで引っ張り出してくれるこの先生に対し、私たちは生涯感謝し続けなければならない。

そして彼らもまた、アヴちゃんという唯一無二の先生と関わることで生涯刺激を受け続けていくことになる。

この出会いによって流れるように受け続けた刺激がそのまま楽曲に載っかり、滞ることなく私たちの元へと届けられているという事実。

この刺激の波の到達点に居れることが幸せで幸せで、堪らない。

 

龍宮城は世界観が確立されている。そのため、彼らがMCで喋った言葉は例え本心だとしても素のようには感じられないし、談笑することも、アンコールで出てくることもない。アーティストとして孤高、どんなに手を伸ばしても届かない存在だと、そんな風に感じていた。

しかし、今回のFC LIVEでは圭吾くんとSくんが仲良くおしゃべりしていた。今までのライブでは、考えられない光景だった。あの会話も演出のひとつだったかもしれないが、年頃の高校生の絡みが見れたみたいで、なんだかとても嬉しくなった。圭吾くんの素で出たような「海音」呼びに、悶えた。あの瞬間はあまりにも微笑ましく、「圭吾が1番で僕が2番になると思う」と言ったSくんに対して、「俺は1番なんだね」と嬉しそうに笑っていた圭吾くんの表情とあの空間のふたりが、愛おしくて堪らなかった。


春空が黎くんと圭吾くん(と至)を落ち着かせるように優しい言葉で和ませる場面も、なんだか素の春空を見れたような気がして嬉しくて。

 


龍宮城のファンには名前が無い。

 


〝孤高〟の存在である龍宮城を推し続けることは、なんだか変な気持ちで、私たちの1個先を飛び越えて、1km先、いや、10km先に居るような、とても遠いところにあるような気がしてならなくて、近い所に居ても分厚いガラスの奥にいるような彼らだから、なんだか寂しくて。でもそんな存在の彼らが時折見せる、素の部分が少しでも垣間見えると、龍宮城には似合わない〝親近感〟というものを感じられて、心の中にある電熱線がジワジワと赤くなるように嬉しくなる。この気持ち、みんなも分かるのだろうか。もしかしたら、私だけかもしれない。

 


ここまでつらつらと書き連ねてきたが、あまりにも長くなりそうなので。なぜ公演ごとに書いてこなかったのかと少しばかり後悔しています。

ここからは、私が感じたメンバーの印象、そして個人的に感銘を受けた場面と楽曲について記述していく。

 


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まず初めに、サイファー。

あまり何を言ってるか聞き取れなかったけど、聞き取れた部分に対して色々考えてしまって、私にとっては、様々な感情が交錯する複雑な時間だった。このパフォーマンスの中ではゼロゼロのことも、過去のことも、忘れず共に歩んでいくという全員の意志を感じた。この部分も、カッコよすぎて笑ってしまった。

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JAPANESE PSYCHO

言うまでもなく最高の歌。その日の一体感を作り上げるトリガーの役割をいつも担っている。あの日の一体感の第一歩は、間違いなく圭吾くんが作り上げたものだったと確信している。


KEIGO

リーダーになるべくしてなった人間。龍宮城の中でも特に一人の世界観があって、彼が紡ぐ言葉には彼のアイデンティティと芯の強さが詰め込まれている。彼の言葉遣いは、彼にしか作れなくて非常に魅力的なのだ。独特で、強く惹かれる。端正なビジュアルだけではない。彼のセンスに惹かれない人間はこの世に存在しないとさえ思ってしまう。スターダストへ。ゼロゼロ開始の1週間前に房総半島で、一般の高校生だった彼をスカウトしてくれてありがとう。


その後に披露された至のJAPANESE PSYCHOには、圭吾くんのものとは全く別の魅力があった。魅惑的、と言うべきだろうか。至本人が持つ妖艶さとミステリアスな部分を上手く歌に乗せていたような、そんな気がした。


ITARU

彼は、水みたいな存在で、普段はぬるい水のように誰の心にも違和感なく入り込むけれど、彼は変化の振り幅が大きい。一度始まれば、鋭い氷にも、肌に触れる気体にも。1位という崇高な順位で裏島音楽学院を卒業したという事実も、ある意味では一番恐ろしい存在かもしれない。主席で卒業したからと言っても決して傲慢な態度を取ることなく、メンバーのことを素直に尊敬できる謙虚さと純粋さをもつ、常に暖かくて心地よい温度を保ってくれる貴方が1位で本当に良かったと、心からそう思います。

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ブラッディ・ララバイ

私の大大大好きな楽曲。音楽劇の時に初めてパフォーマンスを観て、一目で虜になった曲。前回のSYORYUでは訳あって観ることが出来なくて。イントロが聴こえた瞬間、大絶叫してしまった。断末魔の叫びをして、一度死んだ。本当に大好きで、大好きで、大好きで、音源が早く欲しくていつも飢えていて、だから聴けて本当に嬉しかった。観れて本当に嬉しかった。死んでも耳に残るキャッチーなメロディーと凄まじい威力を放つパフォーマンス。私は彼らのブラッディ・ララバイを観るために生きていく。

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SENSUAL

初めに、冨田と黎くんで披露されたそれは、本家を上回るものではないかと感じるほどだった。いや、本家だって、本家の旨みがある。が、今回披露された1つ目のSENSUALは、伝説だと思った。


冨田侑暉

冨田は、ゼロゼロ当時から個人的に印象が薄く、デビューメンバーに選ばれた時には(え?彼が?)と思ってしまう唯一の人間だった。今思えば、その感情がいかに愚かなものであったか痛感する。彼の成長力には、目を見張るものがあった。音楽劇で、唯一心の底から大っ嫌いになった彼。最悪な役どころを務めていたその時から、薄々気付いていた。冨田が持つ凄さに。金髪のハーフアップ、センターパートで披露したSENSUALの冨田はひどく美しく、目を奪われるしかなかった。スポットライトに照らされる彼がとても綺麗で、輝いていて。彼を見る度に、ゼロゼロの最終回で感じた浅はかな感情を思い出し、いかに自分が愚かな人間であったか、ナイフでグサグサと突き付けられていくのだと思う、永遠に。


2人のSENSUALは、lalalaの部分での距離がそれは近く、このままキスしてしまうのではないかと思うほどに近く、互いが互いに様々な感情が入り交じった表情をしていて大層魅力的だった。


Ray

彼のカリスマ性は龍宮城の中でも突出している。誰が見ても彼は他より頭半個分抜きん出ていると、そう感じるはずだ。黎くんは龍宮城の〝核〟の部分を担っていると、私は思う。ストイックで、表現に対する熱量が人一倍強く、驚かされるのはいつも彼のパフォーマンスで。悲痛な叫びややるせなさ、もどかしさなどを表現するのに長けている黎くんは、SENSUALで冨田を前に後ろから彼の肩に触れて踊っている時、冨田を愛おしくて遠い存在のように見つめていて、その場面での、恋する人間かのような彼の熱い視線にとてつもなく惹かれた。SENSUALって、そういう曲なのか?本家のものとは全く別物であるとさえ思ってしまった。


その後に披露された本家のSENSUALは、いつもの安定感を保っていた。


KENT

FC LIVEを通して思ったこと。SENSUAL然り、2MUCH然り、私の知っているかわいいケンティーは、そこにはもう居なかった。熱い言葉で一人、堂々とポエムを唄うハーフアップの君は、可愛かったケンティーとは似ても似つかない。龍宮城のKENTとしてただそこに存在していて、彼はもう、Hug Hug Hugやカチカクはやってくれないのだと確信した。そのくらい、龍宮城の住人になっていた。

だが、それでいいとさえ思ってしまった。

とても、カッコよかった。

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S

暗闇の中でただ一人輝く君と、私だけの世界。聞き惚れるとはこのことを言うのか。彼もまた、ついこの間まで一般の高校生であったのに。真っ暗な空間で孤独にスポットライトを浴びてアカペラでRONDOを歌う彼は、小さい顔によく映える、金髪のセンターパートという現実離れしたルックスも相まって幻のようで。ポーっとしてしまうほどの心地良さとは裏腹に、Sくんの中で青く燃え上がる灯火のような想いを感じた。RONDOは、龍宮城の中で唯一、脱落していったゼロゼロの仲間との思い出がたっぷりと詰まった大切な曲。その大事な曲を、彼らに思いを馳せながら歌っているような気がしてならなくて。Sくんが持つ青さと優しさが入り交じった歌声で歌うそれは、あの空間でしか味わうことが出来ない貴重なもの。事実、あれは幻の時間だったと思う。

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2 MUCH

「全然丁度よくなくていい」から始まるこの曲は、いつも私を肯定してくれる。龍宮城が一緒に戦ってくれる心強い曲だから、自分にとって大切で、奮起させられる。大好きで、いつも泣いてしまう曲のひとつ。

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SYORYU(→↓↘+P)

人は〝カッコよすぎて泣いてしまう曲〟に出逢ったことはあるだろうか。私はある。この曲に初めて出逢ったとき、即ち2 MUCHで。恵比寿で初披露されたこの曲を、Rayの叫びによって始まるこの曲を観たとき、カッコよすぎて涙が出た。こんな感情になるのは、初めてだった。今までの人生で、この気持ちを味わえた瞬間があるということは、私にとっての大きな武器になる。大人になってからの私に初めての感情を抱かせてくれた、大切な曲。

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レイトショー

音楽劇で初めてこの曲を聴いたとき、私はブラッディ・ララバイに対しての思いが強すぎてこの曲の印象が霞んでしまっていたが、今回は違かった。「いつも恥ずかしいくらいに夜」早く音源化してほしいと思う曲のひとつになった。「龍宮城の映画が観たいから」

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DEEP WAVE

今回のJAPANESE PSYCHOで初めて披露された楽曲。なんだこれは。なに、これ。人間がやっていい楽曲のレベルを超越している。超越しすぎている。始めの体制、なんだこれ、人が宙に浮いているではないか。ざわめく会場。ジャンルの違う5曲をひとつにまとめたのか?曲の中での変化が、おかしいほどにいっぱいあって、これ、ひとつの曲として成り立つか?いや、成り立っている。成り立っているのだが、あまりにも難しすぎる。何だこの曲。と思っていたら、終わった。難しすぎる曲。特に、圭吾くんのホイッスルボイスがずっと耳に残っている。この曲、アップテンポでノリノリだったと思いきや、スローテンポになって。なんだこの海みたいな曲。海、オイ、龍宮城だ、オイ、龍宮城かよ。あと500回ほど観ない限り、私には到底理解できない場所にある。これが〝出来る〟龍宮城、あまりに恐ろしすぎないか。腰が抜けた。また、カッコよすぎて笑ってしまった。ぜひ人類に一度、いや、二度、三度、何度も味わって欲しい曲。私が見た前回の龍宮城よりさらに面白いくらいに進化してしまった彼らは、人類が持つ並大抵の頭脳じゃ理解が追いつかないところに行ってしまった。

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齋木春空

私の大好きな春空。私の居た回ではJAPANESE PSYCHOを一人でやることも無く、誰かとSENSUALをやることも無かった(SENSUALは1部にSくんとやったようで絶望)けれど、ずっと私の心に残っています。本当に春の空みたいにあたたかい心を持っている、優しい優しい春空。卓球をずっとしていたから、オーディションでは卓球のスイングを見せた春空。歌もダンスも未経験で、自分の歌に自信がなかった春空。先生に大切な言葉を貰った瞬間からそれを胸にして、努力を止めることなく、毎公演見違えるほどに成長していく姿はいつも眩しいくらいに輝いていて、本当に誇らしいです。今回のJAPANESE PSYCHOも、赤髪でパフォーマンスする貴方は前回のSYORYUとはまた違った魅力を放っていて。音楽劇での百瀬先輩の優しさと健気さは、世界中のどこを探してもあなたにしかきっと表現出来なくて。あの時の人々が涙するほど真っ直ぐな歌声を、私は生涯忘れないでしょう。あなたを好きになれてよかったと、心からそう思います。龍宮城の中でもマイルドな雰囲気を醸し出していて、遠くに行ってしまったと感じそうな時も繋ぎ止めてくれるような存在。芸能界に染まりきってないような、まだ一般の高校生の面影をたまに感じては、心の拠り所にしています。優しいあなたのまま、成長していく姿をずっと見続けたい、わがままだけど私は、そんな風に思います。

 

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先述の龍宮城の龍宮場から始まり、2 MUCH、秘密を持った少年たち、SHORYU、そして今回のJAPANESE PSYCHO。彼らの進化は、留まるところを知らない。

 


確かに、今回のFC LIVEは1時間で幕を閉じた。

しかしあの時間は誰がどう考えても、人間が1時間で得られる満足度の領域を遥かに超えていた。

夢のようだった、今思い返そうとしても全てを鮮明には思い出せない。そう、幕が閉じ、会場から出た瞬間、まるで玉手箱を開けたような感覚に陥るのだ、あっという間に過ぎ去っていく幻想のような時間。二度目はないから、アンコールもない。この感情を覚えるのは、いつもそうである。

ただ、もう二度と感じることは出来ない強烈な時間と、身体中に響き渡る重低音、観客の熱気、鼓膜が破れそうなほどの歓声、これら全てが確かにそこに存在していたことだけ、覚えている。

 


私が一番伝えたい龍宮城の恐ろしさは、どんなに好きな推しを見ようとしても、なぜだかセンターに立っている人に目を奪われてしまうということ。推しを目で追っているつもりでも、いつの間にか真ん中に立つ人に視線を奪われてしまっている。これは、連番していた友人と同じ意見だった。

各々推しがいるのに、それぞれのパフォーマンスの中で目立つべき時に目立っている人間に目を奪われてしまう。つまり龍宮城は、全員が凄まじい魅力と圧倒的オーラを持っている、底抜けの恐ろしさを孕む集団であるということ。

いつも、音源を越したパフォーマンス。音源だけじゃ物足りなくなって、だから足を運びたくなる。生身の彼らに会いに行きたくなる。いや、会いに行かなければならないのである。私は、ある種の中毒者なのだ。

 

 

 

 

彼らは、このキャパシティでやってていい存在なんかじゃない。

 

 

 

 

知ってるのが私だけでいい。

他は知らなくていい。

私だけが知っていればそれでいい。

 

と、思うよりも先に、

 

彼らがここに踏みとどまっていてはダメだ

世界の人に見てもらう価値がある

人々が彼らを知らずに死んでいくことはあまりに勿体ない

 

と、強く強く思ってしまうような存在。

 

 

彼らの実力は、平日にしか会場を抑えられないような、そんなグループなんかじゃないから。

 

 

武道館が見えた。彼らが、ここよりもっと広い会場で多くの観客に包まれてパフォーマンスしている未来が鮮明に見えた。

 

圭吾くんは、「龍宮城が多くの人に愛されていることを知っている」と言っていた。貴方達に対してここまで重い感情を持っている人間がいること、遠い未来にでも届くといいな、とちょっぴり思う。

 

春に待ち構えるDEEP WAVE。次は、どこまで進化した彼らを見せつけてくれるのか。身体中に電撃が走るような感覚を、彼らの歌、ダンス、表現全てによって感じ続けていきたいという欲望、これこそ、私が生き続ける理由の大部分を形成していくと思う。

 

私の生きる目的になってくれてありがとう、龍宮城。

 

彼らの表現力が、努力が、実力が。

どうか多くの人の目に触れ、耳に触れ、肌に触れ。

それら全ての人に激震をもたらし、世界に対して

 

〝龍宮城は唯一無二の存在である〟

 

と大きな声で、大きなステージで堂々と。

近い将来に証明してくれることを、切に願う。

 

 

モフ美

カラオケ行こ!の主人公は岡聡実であり紛れもなく齋藤潤の人生である

 

竹野世梛

 

私の推しであり、生きる希望の彼が、とある映画に出ているという噂を聞き付けた。

私がX(旧𝐓𝐰𝐢𝐭𝐭𝐞𝐫)をお休みしているとき、どうやら界隈がザワついていたらしいのだ。

 

______竹野世梛、出てた?

 

エンドロールに名前があった、と。ただ、見つからなかった、と。そんなはずがあるわけない。

まず、こんな珍しい名前の同姓同名なんて居るはずがないし、だって、彼の顔は世間の誰が見ても整っていて、笑顔は太陽のように眩しくて、瞳がいつでもキラキラと輝いていて、彼を知らない人も目を奪われてしまうようなオーラを放つ、そんな存在の彼が、2時間弱ある映画の中で誰も見つけられないだと?そんなはず、あるわけない。

でも確かに、公式からのアナウンスは無いし(発信の遅さについては通常運転である)、あろうことか本人さえ、なんの発信もしていない。自分が初めて出演する映画の告知を忘れる?そんなことがあるだろうか。はたまた、同姓同名の別人なのだろうか?

モヤモヤした気持ちを抱えたまま過ごしていたそんな時、映画公開から3日後、本人からようやくInstagramにアナウンスがあった。どうやらその映画に出ている、と。そしてそれは、人生で初めてのお芝居の現場であった、と。

 

そんなの、観に行くしかない。

推しが初めてお芝居をした記念すべき映画を、観ずには居られない。

見つからないはずがない、絶対に見つけてやる。

 

そんな重くて単純な理由で観に行った映画に、自分の人生がとてつもなく狂わされることになるなんて、この時の私は知る由もない。

 

 

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私にとって初めてのカラオケ行こ!は、未知だった。なんの前情報も得ずに、誰が出ているかも知らずに、トレーラーも見ずに、ただ可愛いタイトルだな、と思って、それだけ思ってチケットを取った。ポップコーンは何味にしようか、なんて思って。

スクリーンに入る前のポスターを見て、綾野剛が出ていることを知った。ふーん、綾野剛の映画だったんだ。隣の男の子は…誰だろう、知らない。

そして目的がなにしろ〝推し探し〟であったから、それはもう集中して観た。映画の中で、世梛の幻を2度見た。向こうにぼやけている、傘をさしている男の子ではないか。今通り過ぎた、ビニール傘を持った男の子ではないだろうか。結局確信は持てなかった。

 

 

10分だった。

 

私が世梛の幻を2度見たのは、開始10分の話である。

 

 

 

10分を過ぎたあたりからは、自分でも気付かないうちに、映画に釘付けになっていた。本来の目的を忘れて、ただ夢中で映画にのめり込んでいた。

 

面白い、とてもシュールで、私が好きなタイプの笑いだった。間がすごく絶妙で、私の苦手な「どや、ここで笑え」と言わんばかりの、やりすぎじゃない?というギャグ演出もない。自然に声が漏れてしまうような、そんな笑い。全てが私にとってちょうど良かった。

 

 

普通に楽しんでしまった。

 

 

本来の目的を忘れて、いち観客として楽しんでしまった。私としたことが、推しを見つけられなかった。見つけたのはただひとつ、エンドロールに映る、竹野世梛の文字だけ。エンドロールに推しの名前を見つけたことはとても誇らしかったけど、それ以上に悔しかった。見つけてあげられなかったことが、悔しかった。しかしそれは案外、すんなりと受け入れられた。映画の面白さが、ファンが推しを想う気持ちを上回った。ただそれだけのことだった。

 

原作が漫画であることも知らなかった。映画のエンドロールで、作者が和山やまであると知って、あぁ、どおりで。女の園の星の、クワガタの。あの人か。と思った。以前にX(旧𝐓𝐰𝐢𝐭𝐭𝐞𝐫)で読んだことがある。記憶にあるということは、それくらい好みだったからだろう。だからか、だからこの映画も好きなのか、と腑に落ちた。

 

しかし、そうではなかった。

 

私は野木亜紀子の脚本が好きなのだと悟った。

 

私が好きなのは、全て野木亜紀子が作り出したものだった。だって、鶴と亀の傘も、私が好きな映画を見る部の栗山も、ウザったいけど憎めない和田も、おせっかい焼きな中川も、顔がタイプでイケメンな指揮者も、ももちゃん先生も、自分から誘う聡実も、原作には居ない。恋愛のすったもんだも、怒涛の紅に挟まれたメドレーも、映画のキーポイントである和訳だって、原作には無い。

そう気付いた時に、衝撃が走った。

 

山下敦弘がメガホンを握る作品が好きなのだと思った。

 

全ての間が憎らしいほど絶妙なバランスを保っていて、カットとカットの繋がりをここまで上手く作り上げられる人は居るのだろうか、と思った(特別映画に詳しい訳では無いが)。ご飯茶碗の上で輝く鮭の皮も愛することも、音叉のラの音から繋がるハミングも、脚本には無かった。

その凄みに、鳥肌が治まらなかった。

 

和山やまの世界観は好きだ。彼女の画は、私の好きな作品である「動物のお医者さん」を彷彿とさせるレトロチックなタッチをしていて、コミカルな場面にはシュールという言葉が良く似合う。今日電車で原作を読んだ時も、気付かずに「フッ」と声が漏れてしまうような、そんな漫画。人と人の会話が自然で、どこか盗み見ているような気分になる、誰かの日常を切り取ったような作品。

 

しかし、漫画は、文字に出来るのだ。

足りない部分は文字で説明することが出来る。

 

それを見事に補ったのが、紛れもない

齋藤潤という俳優だった。

 

映画だって、後からナレーションを付け加えればいくらでも補足で説明することが出来る。しかし、山下監督も野木亜紀子も、それをしなかった。

なぜか。齋藤潤で全てを補えるからだ。

 

元々聡実役はオーディション役で決まった。原作者である和山やまはじめ、脚本の野木亜紀子綾野剛らが審査を務めた最終審査で、満場一致の合格。それだけで彼が実力派俳優であることはお分かりいただけるだろう。

齋藤潤くんは、齋藤潤くん演じる岡聡実と同い歳であること、変声期であること、合唱部部長のプレッシャーと初主演のプレッシャーなど、役と重なる部分が多かったと言う。

 

彼の顔立ちは吉沢亮のような、いわゆるパッと見で映える、ぱっちり二重で鼻筋が通っていて骨格がしっかりしているタイプではないけれど、よく見ると綺麗な奥二重をしていて、全てのパーツが整っていて、口角が結んだようにキュッとなっていて愛らしく、究極の小顔で脚が長く、芸能人向きのスタイル。しかし、なぜか親近感があって、どこに居てもオーラはあるけれど目立ちすぎずに馴染む、そんなルックスだ。それが、世間ではごく一般的な、一生懸命部活動に励むパンピの中学3年生、岡聡実とマッチしている理由の一つだと思う。

 

ビジュアルは言わずもがなだが、私が衝撃を受けたのは圧倒的演技力である。

先述の通り、彼の演技は原作の〝文字〟の部分を補うことが出来る。

彼の強みは、視線にある。岡聡実は、あまり笑わない。表情が少ない分、岡聡実の心情というのは基本的に、目の動きひとつで表現する必要がある。

パンピ中学生がヤクザに拉致られて閉鎖空間に閉じ込められ、心を開けるわけもない段階のその空間全てに怯える戸惑いと少しの好奇心。パンピ中学生が突然大勢のヤクザに囲まれた時の恐怖と張り詰めた表情。パンピ中学生がヤクザにダル絡みをされた時のジト目だったり、パンピ中学生がヤクザに目を付けられた時の絶望を、目の動きだけであそこまで表現出来る中学生は、居るだろうか。否。

それでいて神奈川出身だというから脱帽モンだ。齢十五のうまれたて中学生が、あのナチュラルな関西弁を生み出すまでどれほどの労力と時間を費やしたか、計り知れない。

あと堪らないのが、岡聡実はポーカーフェイスだが、齋藤潤の自分が思うチャームポイントは〝よく笑うところ〟であること。悶え殺される。

 

また、齋藤潤は、岡聡実が持つ、成田狂児に対する心情の変化を見事に演じていた。狂児に心を開き、好意を持つ過程を、表情で、それは見事に。

齋藤潤は岡聡実そのものであった。であるから、齋藤潤の演技は相対する綾野剛が引き出したとも言える。

初主演の齋藤潤にとって綾野剛の存在は大きかったはずだ。綾野剛は潤くんに対し、メンタルケアや先輩としてのアドバイスはもちろん、対等な俳優としての演技の掛け合いをしてくれて、二人で意見を何度も擦り合わせたという。

こうした時間を共に経た結果、齋藤潤の綾野剛に対する心の開きが、聡実の狂児に対する心の開きにまんま反映されているように感じた。

綾野剛はじめ周りの俳優にも恵まれていたから(潤くんが納得するまで皆付き合ってくれたそう)、カラオケ行こ!の現場は、主演俳優・齋藤潤にとってはこれ以上ない最高の環境だったに違いない。

 

 

またこれには賛否両論あるらしいが、私が初回に鑑賞して思った感想、それは〝カラオケ行こ!は良質なBLである〟ということ。

 

「怖いのはもう嫌やけど、狂児さんだけやったら続けてもええよ」(君とだったら私、怖くないよ)然り、狂児がかけてくれた言葉「綺麗なモンしかあかんかったらこの街ごと全滅や」は中学校が全ての聡実にとって救いだった。

私はその後の聡実の、自分のネガティブな部分まで認めてくれて嬉しいと言わんばかりのニヤける表情が堪らなく好きである(狂児の腕に絡まりながら「狂児さん、帰りたい…」のあの名シーンも堪らないが)。

加えて聡実が狂児にキレた理由も、恋愛(狂児の勘違い)のすったもんだをからかわれたからで、それだって、好きな人に誤解されたときのやるせなさと全ての感情が絡まった爆発のように感じられた。

 

また、聡実と同じく狂児も聡実を大事に思っていて、いや、狂児おま、これは恋をしてるだろう!と勘違いしてしまう、聡実先生によるメモ説明はそっちのけで愛おしいものを見るような眼差しで聡実を見つめ続けているシーン(気付いた時には昇天していた)や、宇宙人から聡実を守ったり、人に固執しそうにないヤクザが悲しそうに「元気くれるんやなかったのー」と聡実の背中に訴えるだとか、「聡実くん置いて死なれへんしな」など、狂児ー!世間ではそれを恋と呼ぶんやでー!と思うシーンが多かった。これが俳優、綾野剛の力なのだろうか。彼もまた、末恐ろしい生き物である。

(正直、綾野剛は好きでも嫌いでもない俳優だったが、笑顔がチャーミングで、繊細な表情が上手い俳優だと知らなかったため、見る目が変わった。齋藤潤くんの出演作は少ないから、自分は今MIUに手出しをしようとしている。)

 

狂児と聡実の関係は、エモいとかそんな安っぽい言葉で表せない、尊くて儚いもの。幻に感じるような、脆くて優しいただ一つの、二人だけの青春。

 

そして、お互いがお互いに想いあっていることに気付いていないのも堪らないし、そんなのをかき消すくらいの青春味!青空!も、全てがちょうど良かった。ほんまにありがたいものを見せていただきました。

 

 

映画版カラオケ行こ!は、全ての事象が重なるべくして重なった作品だと断言する。

和山やまがカラオケ行こ!を描いたこと、カラオケ行こ!がマンガ大賞を受賞したこと、カラオケ行こ!の映画化が決定したこと、そして、齋藤潤がこの世に生まれたこと、齋藤潤が演技に興味を持ったこと、齋藤潤が俳優を目指して事務所に所属したこと、齋藤潤がカラオケに篭って台本に聡実の気持ちを書き込んだこと、齋藤潤が紅を沢山練習して挑んだオーディションで合格したこと、齋藤潤がこの役を受けると決めたこと、齋藤潤の声変わりのタイミング、全てがこの映画のためだった。

 

クライマックスの、齋藤潤の魂を全て注ぎ込んだような紅は、涙無しには見られない。

当然私も、毎度泣かされる。お涙頂戴ではなく、いつも自然に涙が出ているのである。自分の人生でXJAPANの紅に、YOSHIKIに泣かされることになると誰が想像出来ただろうか。4回観て、4回泣かされている。

齋藤潤は、齋藤潤の歌声は、なぜここまで人の心を揺さぶるのか。

 

聡実のすべての思いを込めて、ももちゃん先生曰く、愛。狂児への愛を載せて、綺麗なものだけじゃなくていいと認めてくれた狂児への愛を、声変わりの辛さとか関係なしに、ただ必死に、地獄にいる狂児へ向けて、喉が潰れそうになるほど全力で歌う紅。人生の刹那に、命を削って歌った鎮魂歌。

 

人の声変わりの過程って、ひとつの映画に収めることが可能なんだ、と思った。自分の人生において、声変わりの瞬間に立ち会うことなんて中々ないから、新鮮で、とても切ない。まるで、真っ赤に燃えて尽きる花のようで。

 

私自身、同じ映画を観に映画館まで足を運ぶなんて経験は初めてで、同じ映画を観に2回以上映画館に行ったことのない人が、4回足を運んでいる。私をここまで突き動かすのは、潤、アンタが初めてだよ。私を紅に染めたのは、アンタ。

 

1回目は、推しを見つけに

2回目は、推しの声と聡実の紅を聴きに

3回目は、友人と行ったので楽しめてるかなと気にしながら聡実の紅を聴きに

4回目は、極音上映で聡実の紅を聴きに

 

日曜日は映画を観て

月曜日にシナリオブックを買って

火曜日にパンフレットを買って

水曜日に映画を観て

木曜日も映画を観て

金曜日に原作を買ったよ

土曜日で1週間コンプリートだよ

 

何度観ても見飽きない、だって、聡実の魂の紅は今、映画館でやっている時にしか聴くことが出来ない。今後様々な媒体で配信されることになるだろうけど、それは聡実の魂の紅を肌で感じられないことを意味する。音楽のストリーミングサービスにだって、聡実の魂の紅は無い。だから私はまた足を運ぶことになると思う。コカイン星のシャブ星人は紛れもない、この私だ。

 

漫画に原作厨はつきものだが、綾野剛が解釈違いとこの映画を食わず嫌いしている人に、どう魅力を伝えるべきかすごくもどかしくてやるせない。なぜって、ネタバレありきで成り立つこのブログは、原作厨の目に触れることはないだろうから。

しかし、ただひとつ言えることは、映画版カラオケ行こ!は、漫画とは全くの別物であるということだ。

今日初めて原作を拝見したが、別の作品だったのではないかと思うくらい、オマージュしただけなのでは?と思うほど、原作と違った。いや、合っているのだが、違った。フォーカスされている部分が全く別であるからだ。

2次元の岡聡実の泣き顔は(オワタ\(^o^)/)なのに対して、3次元の岡聡実の泣き顔は、潤んだ目の奥に絶望を感じるものだったりする。漫画と映画では、映り方も変わる。そこのギャップも楽しんで見てほしい。そのくらい、齋藤潤の演技に惹き込まれるし、齋藤潤演じる岡聡実が主役の映画なのだ。映画版カラオケ行こ!は、漫画の要素をひとつまみして、それを濃く描いた作品である。

齋藤潤、綾野剛山下敦弘野木亜紀子が、和山やまへのリスペクトを持って別の作品を作ったら、全ての良さが掛け合わさって、不可抗力で最高の作品が出来上がってしまったのだ。神様もびっくりだと思う。

 

シナリオブックもパンフレットも、23年間の人生で初めて買った。正直、自分がひとつの映画にここまで狂わされるなんて考えてもみなかった。

 

 

 

 

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推し目当てで観に行った映画に、推しが出ていなかった。

でも、別に推しが出来た。そして現在進行形で狂わされ続けている。世梛のせいである。どうすんのコレ。

 

 

 

齋藤潤くん、君の青春の全てを紅に、そして聡実に捧げてくれてありがとう。

 

 

 

 

モフ実

 

M!LK CONCERT TOUR 2023【CHECKMATE】を終えて

 

皆さんお察しの通り、このツアーに参戦してからというもの、私の中で今までと比較してもかなりクソデカ感情が芽生えてしまったのでここに供養しようと思い、綴る。

 

M!LK CONCERT TOUR 2023【CHECKMATE】

3月31日から福岡、大阪、名古屋を周り、オーラスとなる東京公演はM!LKで史上最大規模を誇る東京ガーデンシアター(キャパ数8000人)にて開催、チケットは注釈付き指定席まで満員御礼SOLD OUT、大成功を収めた2023年のツアーである。

 

最近これと言って推しに対してクソデカ感情湧くこともなく、ただ平然とlikeの気持ちで参戦した名古屋。が、凄かった。やっぱりM!LKは凄かった。名古屋公演、個人的に席は今までで1番良かったのだが、入りがバタバタで正確に覚えていないこと、そして単番だったこともあり、恥ずかしさから本気の楽しみをメンバーに見せつけられなかったという事実があるため、ここでは東京公演について語ろうと思う。

 

前回のライブが行われた国際フォーラム、私の周りだけだったのかもしれないがチラホラ空席だったこともあり、正直なところ(8000人埋まるだろうか?メンバーが悲しまないだろうか?)という不安要素の方が大きいまま会場に向かった私は、人の多さに驚愕した。エビライだ。M!LK1組で、エビライの時と同じ会場で、エビライと同等の人数を集めている。息が苦しくなるほど会場の周りには老若男女問わず沢山の人が居た。私ごときが心配する必要はなかった。とても誇らしかった。

 

そう、本文では〝誇らしい〟という単語が沢山出てくると思う。今回のライブは、今までM!LKを追ってきたみ!るきーずとして本当に誇らしかったのだ。

 

M!LKのライブは、本当に楽しい。他と比較したいという訳では無いが、終わってしまうのが毎回惜しいほど、丁寧に、大切に作り上げられている。メンバーが演出や衣装に携わっている、ということもあるかもしれないが、メンバー一人一人のライブに対する意気込みが他とは違う、そんな気がする。一筋縄では行かない、簡単にドームやアリーナに行けない立場だからこそ出せるような魅力が、彼らにはある。

 

文字にするだけでも恐ろしいが、「ここでは夢を掴めそうにないので脱退します。」「結局全員で夢の舞台に立てなさそうなので解散します。」こんなことは考えたくもないが、実際にその道を選ぶ人やグループもある。〝EBiDANを推す〟ということは〝常にその恐怖と手を繋いで生きていく〟ということだと思う。だから私はいつも命懸けで参戦する。毎曲、いつ聴けなくなるか分からなくて、いつ見られなくなるか分からない。次回が、今日と同じメンバーで披露出来る確証はない。一つ一つのパフォーマンスを噛み締めなければ、後悔するのは自分かも知れない。彼らのライブは、儚ささえ感じられる。

 

推しである山中柔太朗は、毎公演のライブで『世界一幸せにしてやるよ』と言う。この言葉がデフォルトの挨拶なのだが、この言葉に対する責任を重く受け止めている気がして不安になる。最後の挨拶では私たちにいつも、『今日は楽しかったか』と尋ねる。それが、単純に疑問から来ているものなのか、不安から来る確認のしたさ、みたいなものなのか定かでは無いが、この言葉を聞く度に「心の底から本当に楽しかったよ、ありがとう」と直接伝えに駆け出したくて堪らなくなる。ライブを振り返ってその点で不安を感じ、眠れなくなったりはしていないだろうか。少なくとも私は世界一幸せになっている。だから安心して眠っていてほしい。一人でも〝世界一幸せ〟になった人がいることを伝えたい。

 

優しすぎるが故に、本当に、多方面から物事を考える子。常に思考していて、無意識に神経を張り巡らせている子。楽観的に見えて繊細だから、溜め込んでしまっているものも多いと思う。グループの中で最年少ではなく下から2番目という立場では大々的に甘えにくいだろうし、家でも兄で居るため甘え方が分からないだけかも知れないが、貴方だって最年少と1つしか変わらないし、最初から居た訳では無い、同時期に加入した存在なのだからもっと周りに頼って欲しい、と思う。

 

決して弱音を吐くことなく、朝が弱いのに寝る間を惜しんで仕事していて、常にメンバーやファンのことを考えていて、人の繊細な心の動きにいち早く気付いてフォローすることが出来て、目立つことが得意では無いのに、時には自分がいじられ役を買って出て、自分のことはいつも後回しで、自分を削ってでも相手に対して惜しみなく優しさを与えられて、裏では死ぬほど努力を重ねているのに、その努力を隠して、私たちの前ではカッコイイところだけを見せてくれる。山中柔太朗は、非の打ち所がない人間で、完璧なアイドルだと私は思う。

 

今回のツアーを終えて彼は、個人のファンコミュニティで、「与えられたかな」と言った。確実に貴方は〝与えられて〟いる。それも充分過ぎるほど。私だけでは無い。彼は優しすぎる。私たちが不安になるほどに。この優しさがどれほどかと言うと、私が22年間生きてきて出逢った人の中で確実に、一番優しい。ダントツだ。これは、私が山中柔太朗推しで無かったとしても、贔屓目なしにそうだと胸を張って言える。見えない部分は私には一生分かり得ない。しかし、YouTubeでの行動やライブでの発言など、私たちに見えている部分だけでも、優しさが垣間見える。垣間見え続けている。垣間見どころか大っぴらに溢れ出している。山中柔太朗は、もっとワガママになるべきだと思う。ワガママになってくれないと、私が辛い。

 

(〝私だけは彼を理解したつもり〟になって勝手に気持ちよくなっているだけなので、解釈違いがあれば謝ります。『君はスパークル / ≠ME』参照)

 

山中柔太朗だけに限らず、M!LKは全員心が優しい。ファンから見てもよく分かるほど、メンバーの仲が本当に良く、個人の中身も素晴らしいメンバーで構成されているグループだから、推していて本当に楽しいし、このグループを推せていることが誇らしくなる。そして、M!LKを推していると分かるのだが、グループとして纏まっていると感じる部分が多い。全員が同じ場所を同じ熱量で目指しているからこそ培った纏まりだと思う。